ホームスクーリングの12年
学校からホームスクーリングへ吉井春人 日野バイブルチャーチ牧師
東京ホームスクーリング祈祷会 主宰
ホームスクーリングはじめて13年になりました。

●イエス様から愛されている子ども● 

日本では、母の愛の強さが語られます。それゆえ、母がその産んだ子どもに対してもつ愛の深さは創造主なる主の愛の深さに比べられてきました。子どもへの愛ゆえに、いい学校を選び、子どもへの愛ゆえに将来が約束されているような進路を願うのです。ところが、子どもさんがいじめを受け、あるいは登校拒否(不登校)をはじめるなかで、そのような愛が空しいと感じておられる親御さんがいらっしゃることでしょう。子どもを一番愛しているのは、親であり、わけても母親の愛は強いと思われるかもしれません。しかし、聖書はこのように語っています。
「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、この私は忘れない」(イザヤ4915)
目の前にいる子どもを最も愛しているのはその子の母親でも父親でもなく、天地の創造者なる主なのです。この信仰が、私どもがホームスクーリングを始めた出発点でした。ですから、ホームスクーラーは、親だけで子どもを育てようとしていると考えないでください。むしろ、親の子どもへの教育的な願いを主に全くおゆだねして、主がこの子に与えようとする最善は何かを示されるところからすべては始まるのです。
ホームスクーリングは、親の教育権の回復だといわれます。教育制度という脈絡においては、法的に親の教育権を回復する運動といっても誤りではないでしょう。けれども、キリスト者として子どもの教育を考えるときには、それでは足りません。親である自分たちよりさらに熱烈に子どものことを思っていてくださる方、主なる神がおられるという信仰なしには、ホームスクーリングを語れないからです。
私たちは、親として召されたことを主から示され、そして子どもが与えられたとき、主がこの子にもたれている「最善の御計画とは何か」を尋ね求めました。もし、学校に入学させることを最善であると示されたなら、そのみ旨に従ったことでしょう。でも、私たちには、そのように示されませんでした。主はホームスクーリングを、この子にとって最善の道として示されたのです。
教育について、親も主がその模範を示されるように、子どもの最善を願います。しかし、親よりもっともっと強い愛をもって子どもを支え、愛しておられる方がおられると知ったとき、私たちは自分たちの願いではなく、主のご計画に従おうとするのです。私たちには、自分の子どもを公立学校で過ごさせると、結果として信仰を失わせることになると示されました。このことも、主の特別な賜物であったと信じています。そしてホームスクーリングに召されていることを信じ、子どもへの最善の道であるとの召しを受けてホームスクーリングの決断に導かれたのでした。
「神を愛する人々、すなわち神の御計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ8:28)

●御計画に従って召されるということ●

ホームスクーリングを始めるのには、明確な召命が必要です。親としてホームスクーリングに召されているという確信、信仰が、始めに必要となるでしょう。
子どもさんが登校拒否になって、学校生活を閉ざされた時、親には学校への恨みが残る場合があります。そのような恨みを残したまま、ホームスクーリングを始め、恨みを晴らすために、子どもに何を教えましょう。学校に決別した子どもが、今度は親が学校から引きずって残している恨みの心と向かい合わなければならならず、それはあまりに悲惨で、そして、よくあるケースなのです。
先ずそのような学校信仰から自由になって、ホームスクーリングを召しととらえ、信仰をもって始めてください。
その点で、クリスチャンにとっては、子どもが登校拒否になることはたくさんの恵みが注がれるための入り口のようなものです。もし、ホームスクーリングを決断しかねている段階で、子どもが登校拒否になったら、それは主が特別に、すばらしい最高の機会を備えてくださったと理解していただきたいのです。「学校がだめだから、学校をあきらめてホームスクーリングでもしようか」などと、投げやりにホームスクーリングを始めないほうがいいのです。確かに、子どもが登校拒否になるのは一つの動機にはなりますが、ホームスクーリングに移行するためには、「これも神様の御計画のひとつだ」という信仰、そして、主からの召命を明確に確信していることが望ましいのです。 
それは、召されているという『感じ』がするというものではなく、「神の御計画に従って召されること」すなわち実感があるかないかではなく客観的に、召されているという事実を確信することなのです。
結婚は召命です。独身も召命です。互いに夫であり妻であることも主からの召命です。そして、当然ですが、養子のようなケースも含め、子どもが与えられることもりっぱな召命なのであり、親とされているということそのものが主から召されているという、それこそは客観的なホームスクーリングへの召命の事実なのです。
私はこれまで、「自分は父親としてふさわしいのだろうか」。妻に対しても「夫としてふさわしいのだろうか」という疑問が何度かおこって不安定になったことがあります。ホームスクーリング実践のなかで何度かそのように思わされることがありました。そんな不信仰な親であってもホームスクーリングを継続できたのは、主から親として召されているという信仰が与えられていたからなのです。それでも、召命と賜物は変わらないと信じました。(ローマ11:29)

●すべてのことを働かせて益としてくださる●

いじめが原因であれ、何であれ学校を拒否する子どもは、心に深い傷をもっています。その心の傷が癒やされるために、数週間、いや数ヶ月かかるかもしれません。そのようななかで親子がホームスクーリングに移行する場合、どうか子どもの魂が深く傷ついていることを了解していただきたいのです。
すぐに、チャーチスクールを含めたスクーリングに入ることが難しい場合、体に休みが必要なように、魂にも休みが必要です。時がくるまで、待っていただきたいのです。学校から中途でホームスクーリングに導かれた場合、教科学習などの遅れを取り戻すためなどと肩に力を入れずに、心身共に癒やされるように、お子さんを休ませてあげいただきたいのです。「神の御計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益とされる」とあるではありませんか。
キリストに出会っていない魂が、長く恨みを晴らせないままにおかれることがあります。学校から受けた被害のなかで、もしかしたら人を恨み、自分の過去を恨むような過去の経験があるかもしれません。しかし「すべてをはたらかせて益に変えられる」主は、そのすべてをいいことのために用いて下さるというのです。学校に無理をして行かせていた時期に、親として落ち込むことがあるでしょう。しかし、親とされた時点ですでに主に召されているのだと覚えていただきたいのです。もし、主のご計画によって召されているなら、すべての過去を主のみ手に委ねてください。主は確実に悪しきことさえも「すべてを働かせて」、有益なものにかえてくださるのです。
兄弟の悪意によってエジブトに奴隷として売られていったヨセフでしたが、やがて主は「神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。」とさえ言えるようにしてくださったではありませんか。(創世記45:5)
私たちには、モーセの例があります。モーセは、エジブトで王子として全く異教の教育を受けたにもかかわらず、異教のとりこにならなかったどころか、かえって王子として受けた教育さえ、エジプト脱出のための武器とされたのではないでしょうか。(参照、使徒7:22)
異教徒の中にあっても、主の摂理の御手は働くのです。どうぞ、主の召しに従って、ホームスクーリングを始めてください。誰よりも、あなたの子どものことを心配し、一番愛していてくださるイエス様が十字架の血潮ですべての傷を癒やしてくださっているのです。過去はすべて主におゆだねし、未来に向かって、ホームスクーリングに踏み出そうではありませんか。神様がすべての経験や知識を働かせて子どもにとっても親にとっても益となるように用いてくださることでしょう。■