聖霊の知恵と力で歩む

青木 靖彦 光のこどもインターナショナルスクール グッドサマリタンチャーチ牧師 

 

何故始めたのか?

 チャーチスクールを始める時、多くの人がたくさんの疑問を投げかけ、危惧を訴えました。「これ以上忙しくするのか」「学校ならたくさんあるじゃないか」「教会がそのようなことをする意味があるのか」このような質問は神様からの絶好のチャレンジです。今一度、自分の心を探るようになるからです。問題が起こる毎、困難に出会う毎に、始めに立ち返ります。「何故これを始めたのか、何故これをするのか」そこを忘れ、ただ、「こどもがかわいい」「子供に最善のものを与えたい」だけでやっていくならば、ほかの多くの学校と変わらないものとなっていくでしょう。

 「教育」という言葉は聖書にはありません。しかし創造のときに、私たちは「神に似たもの」として、ハードの部分も造られました。脳も言語中枢も神様によって造られ、非常によくできています。それゆえ人間の特徴は、言語を用いる、ということです。これは教えられなければなりません。神様を知ることも、教育によってなされなければならないのです。

 申命記の中にも「これをあなたの子供たちによく教えなさい」とあります。そして、神様は「地を治めよ」と言われたように、「あなたにしてもらいたいことがあります」と言われます。この使命が果たせるようになったとき、「私は生まれてきてよかった、生きていてよかった」というふうに充足感が得られるのです。

 もうひとつは、あの堕落のあとです。アダムとエバが善悪を知る木の実を取って食べた後、人間はみなアダムの子になってしまいました。聖書の見る人間観は、あきらかに「性悪説」です。「人は全て堕落してしまった。義人はいない。一人もいない」とある通りです。イエス様も言われたとおり「人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」人として生まれた者は皆、救い主を必要とするということです。私たちが罪人であること、救い主が必要なこと、神が救いの道を用意しておられること。これは、教えられなければならないのです。大宣教命令は、「全ての人に福音を宣べ伝えなさい」信じるならば、「生きるようになる」「命を得る」ということなのです。教育が非常に重要であると判ります。

 「キリストを知る」ことは、伝えられることによってなされます。伝道がまさしくそれであり、教育もその一端を担わなければなりません。創造のときから教育は必要でしたが、堕落してからは、いっそう必要となったのです。もし私たちが手をこまねいているならば、私たちの未来はない、国の将来も教会の未来もないのです。私たちの教会にいる子供たちが次の世代を担ってゆく、み心を行う勇士となってゆくのです。これは次の世代を育ててゆく、大きな事業に乗り出してゆくことなのです。

 

大切なことはひとつ

 

 聖書の中には、本当に多くの真理を伝えることばがあります。例えば「あなたの子供にどんな人生を歩ませたいのですか」と問うなら「詩篇一篇にあるように」と、答える人が多いでしょう。それは、「主の教えを喜びとする人、なにをしても栄える人、水路のそばに植わった木のように育つ人、時が来ると実がなり、その葉が枯れない人。」実は神を知っていない人たちだって、そんな人生を子供たちに歩ませたいと思って教育をし、学校を作ります。しかし私たちは神様を離れてこれらが実現することは絶対にない事を知らねばならないのです。

 イエス様が「最も大切な戒めは?」と聞かれた時、一番大切なこととして指摘されたのは「心を尽くし知性を尽くし、力を尽くしてあなたの神である主を愛せよ。」「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」これは、私たちが生きるために絶対不可欠だからそうおっしゃったのです。これがなくては、どんなに立派に見えても、砂の上に建てられた家であり、崩れ落ちてしまうのです。

 「霊とまことを持って神を礼拝する」ことを神様は、私たちに願ってくださいます。これを抜きにして子供たちに、どんなに立派な教育を施しても、それは何の足しにもなりません。むしろそれは、「知恵ある悪魔」を作り出すことが多いのです。このことを聖書ははっきりと伝えています。イエス様も「大切なことはわずか、いやひとつだけです」とおっしゃいました。子供たちを育てる時に「この子にとって一番大切なことはなにか」を、身をもって伝えようとしているか、本当に気をつけなければなりません。これがあれば大抵のことには勝利できる子供たちに育ってゆくのです。

 チャーチ&ホームスクールを行う願いは、実はここにあるのです。日曜学校で教えることやただ聖書を教えるだけで、子供たちがそうなるなら、話は難しくありません。でもそれだけで子供たちの思いが根っこから変えられる、キリストに根ざした人格形成ができるかというと、そうではありません。私たちは入園の面接で、はっきりと言います「私たちはこの子にイエスさまを教えます。この子はクリスチャンになります。そのことが困るならば今やめて下さい。」

 「かまいません。信仰は自由ですから、この子が何教を選んでも私は結構です。」とおっしゃる保護者も多くいます。実は本音は違う場合も多いのですが。それでも私たちは「分かりました。私たちはこの子に全力を尽くして神様の事を教えます」と伝えます。

 実際、三歳児から入った子供たちがみな本気で祈ります。家族のためにも、誰かが病気になったような時も、手を置いて一生懸命お祈りをしてあげる。スクールでも「お祈りしよう」というとき、みんな「はい」「はい」「はい」と我先に祈りたがります。このように子供たちをイエスさまに導くこと、新生に導くことが、第一の目標なのです。

 

第一級の神の人として

 

 第二に、キリストにあって建て上げます。これは「全ての人が神のかたちにかたどって造られた」から来るのですが、一人一人にすごい可能性と能力があるのです。神に似たものというのは、すごい可能性ですから、これを引き出すようにするのです。「あなたにもすごい可能性があるよ」と伝えてゆき、能力を引き出すのです。

 第三に、彼らを訓練して主の使命に生きる者とすることです。主の弟子とする、つまり、「イエスさまは私の主、あなたのみ跡に従います」と生きるように訓練をします。

 この三つがチャーチスクールを行う時の目標です。彼らがただイエスを信じた、洗礼を受けた、ああよかった、というところでは終わりません。彼らがその人生において主を「私の主」として選び、その使命に生きる者となってゆくようにさせていかなければならないのです。

 私たちは、彼らが第一級の神の国の人となることを願います。これは「第一のことを第一とする」ということです。これによって後のものは添えて与えられます。そのとき本当の神の人となったならば、市民としても一流の人に、日本国民としても日本を愛し、日本のために祈る本当の国際人になります。そして、この世に違いをもたらすことのできる存在に、彼らを造り変えて行くのです。私たちの願いはただ単に「聖書に基づいて教える」ということではない、神ご自身を「自分の神」として仕える人を育てることです。

 

教会の使命

 

 そして、私たちの教会の場合、校長、園長は家内が担っていますが、牧師として私も深く関わりを持つことを宣言しています。大事な働きであるということを教会が認めなければならないからです。ミニストリーの大切な一部分、柱のひとつとして、このチャーチ&ホームスクールがあることを宣言するのです。

 公教育というものを始めた人たちの最初の思いは「国あるいは自治体が責任を持って、教育をしてくれれば、貧しい人にも機会が得られてすばらしい結果が出るのではないか」というものだったのです。「どんな家庭の子供でも公教育するようになったなら、きっと国中の監獄は空になり、犯罪というものはなくなるだろう。」ところが現実は、ますます監獄はいっぱいになり、もっと建てなければならないような状況なのです。

 日本も制度においては、世界に冠たる地位を得たところです。小学生たちの算数の能力は世界有数、識字率はほぼ百パーセントです。

 ところが学校はどうでしょう。悲しい、辛い、聞きたくないような言葉が出てきます。不登校、いじめがあり、凶悪な犯罪が増加しています。無気力、無関心、無感動とか、いろんな事がいわれています。

 

命がけの取り組み

 

 しかし私たちは、荒野がどんなに荒野であるのか、暗闇がどんなに暗いかと言っていても仕方ありません。「見よ、私は荒野に道を設ける。」暗闇が濃くても、私たちは光を持っているのですから、大丈夫なのです。今まで私たちクリスチャンも子供を学校に預けることは良いことだと思っていました。また子供たちも、クリスチャンとして荒野の中に出ていって、宣教の機会を見出すのが正しいのではないかと考えていました。

 しかし現実はどうか。子供たちがどんどん病んでいく、日曜学校がどんどんすたれてゆく。若者もまた教会から姿を消してゆくという状態です。この時にいたって、私たちは目を開かされました。「あなたたちは、自分の子供たちを盗まれていて平気なのですか。彼らが『神はいない』だの『信仰は人間が創り出したものだ』という思想を朝から晩までずうーっと聞かされていて、そして、日曜日の朝一時間ほど『神様はあなたを愛しています』と教えられたとしても、それでうまくいくと思うのか。」そう神様は語ってくださいました。

 私たちは、子供たちの教育というものに命がけで取り組まなければならないんだ、ということが分かったのです。聖書を開くと聖書のどこにも『子供たちの教育をほかの誰かの手に委ねなさい』とは書かれていないのです。「あなたの子供に〜しなさい」という言葉が、様々なところで語られています。親が責任を取らなくて、だれが責任を取ってくれるのでしょうか。私たちは今本当に目覚めていかなければならないのです。

 

教育を第三者に委ねない

 

 実は、今の時代は、私たちにとって絶好のチャンスです。神の言葉には、預言があり、約束があります。今、目に見えるところは違っても、その言葉によってビジョンが与えられ、希望が与えられ、そして働きが与えられてゆきます。ですから、私たちは、教育を第三者にゆだねないのです。良きサマリヤ人のたとえを思い出してみて下さい。神の町エルサレムから人間中心の町であるエリコへ行く途中で強盗に会うのです。全ての人が神中心の人生から人間中心の人生へと歩むならば必ず強盗に襲われるのです。その時、子供たちに「おまえには立派な学識、学歴、職業があるから、それで何とかやりなさい」と言えるでしょうか。私たちはこの時こそ聖書に耳を傾けなければなりません。「必要なことはわずか、最も大事なことは一つだけ」です。

 教会はこれに全面的に関わってゆく必要があるのです。チャーチスクールがたとえ大きく立派になったとしても、教会のミニストリーの柱として位置付けます。牧師として私が責任を持ちます。

 ホームスクールに召された人々もいます。それを支えるのも、教会に責任があると思います。「イエスさまを信じて歩むと、こうなりますよ」と身をもって語りたいのです。これができるのは教会です。どんな立派な組織を持った学校でもできません。Iテモテ四:十二にあるように、「信者の模範になる」人が必要です。子供は聞いて学ぶのではなく、見て学びます。ホームスクールを始めたお父さんお母さんには、この自覚があります。献身的に一途に主に仕える姿を見せるなら、子供たちもそのように主に仕えるようになります。

 いろんな牧師家庭がありますが、「私もお父さんのように主に仕えたい」「お母さんのように主のために働きたい」という子供たちがいます。親が、いろんなかたちをとって、すでにホームスクールを行った結果と言えます。

 

人間中心と中立の公教育

 

 国語の検定教科書を見てみると、多くの人間中心的な思想が出てきます。著者の名前が書かれてあり、「これはこの人の言っていることです」というスタンスを取ります。進化論が教えられ、「宗教は人間の弱さが生み出したもの」「神も人間の心の産物」といった思想が底流にある文章が学ばれてゆく。日本の文化の中心にあると思われる人間中心的な考えが、そこには満ち溢れています。「心の中で神はいないと言っている」という詩篇14篇の言葉で表されるものだと思います。ある人たちは「いや神様はいますよ。あの神社にも、このお寺にも」と言うかも知れません。でも聖書が言っているのは「天地を創造した、私たちを愛してやまない真実な人格ある唯一の神様」をいないという者は愚か者だ、ということです。日本は今、「宗教も、私のため、人間のためにある」と考え、どれが一番かと選んで私の神様にしよう、というやり方です。

 教育というものに「中立」ということがありうるでしょうか。この根本には「知識とか真理というのは中立なのではないか、これは特定の宗教にかたよるものではないのではないか」という考えがあります。聖書にはなんとあるのでしょう。「真理とはイエス・キリストです。」これは非常に偏った宣言のように思えます。でもこれが真理なのです。日本の教育は、民主主義の教育と言われてきました。人格ある天地創造の神は在るということについては教えません。「それは、宗教の問題であって、知識とは関係ないもの」という立場です。

 

砂の上の家

 

 実は私たちクリスチャンもこれに影響され、この思想がしみついています。子どもの心は、白紙であり、中立だ、と考えます。時に子供が思わぬ悪いことをしたような時に、「どこでこの子はこんなことを学んだのか。」と言ったりします。でも聖書は言います。「人はみな生まれながらにアダムの子、罪の根を持っている。」

 人間中心主義というのは、自己達成が目的です。それは正に家を砂の上に建てることです。ヒューマニズムは、「人のいのちは何よりも貴い」と言いますが、根拠がないのです。進化論に立っていて存在は偶然の結果に過ぎないと教えるので、使命も目的も生じないからです。「善悪も私が決める」といい、これはアダムとエバが罪を犯したあの立場です。「いるかいないかは自分で選びなさい」という時、「神はいない」という底流が流れており、「祈ってもムダ」「宗教は文化、知性の産物に過ぎない」今、公教育は、そのような立場にあるということを知っていなければなりません。そして、「自然て不思議だね」という子供の驚きに対して、「進化ってすごいね。何もない無生物から命が生じてついには、人間になるんだから」と仮説を真理のように教えているのです。

 それゆえ人間の価値は、今まで何をしてきたか、何ができるようになったか、といったことで評価されます。そうなると、ほとんどの人が挫折の中にある、ということになってきます。東大を卒業した人は挫折感がないと思いますか。私もたぶんないだろうと思っていましたが「私は実は法学部を出たかったけれど、この学部しかいけなかった」「医学部に行きたかったけれど、だめだった」ということがあるのです。日本のあらゆるところ「自分は何かに不充分だった」と失望している人だらけです。

 

神に似た者

 

 しかし、神の民には、ここに答えがあります。聖書は「そうではない」とはっきり言っています。すごい可能性をもっていると教えてくれます。「私の目にはあなたは高価で貴い」これが神様の素晴らしいところです。どこから見てもだめで愚かで、足りないものである私たちに、「あなたはとっても大事だ」と言ってくださるのです。聖書は根拠をもってそう語るのです。

 第一に私たちは、神に似た者となれる、そういう可能性をもった存在、これはすごいことです。神様の願いは、クリスチャンであるあなたがイエス様に似た者となってその影響力を現すことです。「この子がいて助かった」「この子がいて良かった」そういう可能性をみんな持っているのです。今、手につけられないような悪ガキであっても、その中にはその大きな可能性があることを見てゆくのです。

 

使命を与えて下さる

 

 第二の根拠は、神様の使命というものがあることです。時々、「望まれないで生まれてきた」「たまたま生まれたって、親が言ってました」と言う子がいます。しかし、命はだれも造り出すことはできません。その子が母の胎内に身ごもられたその瞬間からもう神様はこの子の主なのです。聖書に、「主は私を母の胎内に形づくられる前に、主は私を知っておられ、私のページがまだ一ページもないうちに、私の人生の全てのページを書いて下さった。」神様が使命を与えてくださると、子供たちに語らなければならないのです。「あなたには、神様の計画があるよ」「あなたは偶然ここにいるのではないよ。この地、この時代。今ここにあるのは意味があるんだよ」子供たちにこれを語ると、彼らは何と言うと思いますか。「僕の使命は何?」「神様の声はどうやったら聞けるの?」親として子供がこういう質問をしてくれるのは嬉しいことです。

 主の祈り、「み心が天になるように、地でもなりますように」でも、よく考えると、このことを一番妨げているのは誰でしょう。地上に嘆きがあり、悲しみがあり、分裂があり、悲惨があるのは、誰のせいでしょう。神様は、「あなただ、あなたがそれを妨げている張本人だ」と言われることがあります。私がみ心を行う器になる必要がある、子供たちにも、み心を行う器になってほしい、これが使命に生きるということです。

 

中立の立場に立たない

 

 第三には、神様が私たちを愛してくださって値段をつけて下さっているということです。その値段とは、イエス様の命です。金や銀どころではないのです。これは、あなたにその値打ちがある、この子にその値打ちがあるということです。子供にこれを伝えていかねばならないのです。これをチャーチ&ホームスクールでは、毎日教えることができるのです。子供たちは、一年かけてもなかなか直らないところを持っています。でも私たちは忍耐をもって、ビジョンをもってこれを続けるのです。

 チャーチスクールというのは絶対、中立の立場に立つことはありません。私たちは、イエス・キリストに根ざした人格形成を行うのです。

 このチャーチスクールを行ってゆくにあたって、教会の人たちが「早く認可をもらえるようなスクールになって下さい」と求めてくる場合があります。注意しなければなりません。「小学校を卒業したと認める」といった資格が得られるかもしれません。でも同時に、「一般の人たちも自由に出入りできるように門を開きなさい」という条件がついてきます。「この生徒が特定の宗教に偏ったものではない教育を受けられるようにしなさい」ということです。これをOKと受け入れることができますか。たとえどんな認知が与えられたとしても、経済面が安定したとしても、絶対に譲れないところなのです。今は、私たちのチャーチスクールもまだ野球のチームが二つはできないくらいの小さなスクールですから、困難も多くありますが、私たちはパイオニアの働きをしなければならないのです。私たちは創生に関わっているのだ、という自負をもってやっていこうではありませんか。これを戦って、勝ち抜いていきましょう。

 

神の権威によって

 

 神の国の究極の目的は何でしょうか、それは、子供たちが使命を果たすようになることです。「あなたがたは世界の光です」と語ってゆく時に、彼らは光に成長してゆくことができるのです。だからこそ、彼らが全世界に出ていって大宣教命令を果たす人になってゆくというビジョンを持ってスクールを行ってゆくのです。

 ですから、これは公教育に対する挑戦ではないのです。「教育はこうあるべきです」と世の中の学校に訴えるのが目的ではありません。信じるところに従って、神が私たちに「子供たちに与えなさい」と言われる教育を与えるという働きなのです。今まで無条件に他の人たちに教育を委ねていなかっただろうかと、問わなければなりません。聖書によれば、「クリスチャン、教会には子弟の教育に責任を持つ、そのための権威と知恵が与えられる」と書かれています。主の御心に従っていこうとするなら、その権威は上から与えられます。

 パウロは使徒としての権威を神様から頂いたと言っています。私たちも子弟の教育について「あなたは何の権威によってこれを行うのですか」と訊かれたならば、「神様の権威によって」と答えることができるのです。信仰によって一歩を踏み出す、その時に、「アドナイイルエ」の神様は、用意をしていて下さいます。私たちも子供四人で始めた時に、もう先生が十人以上いたのです。そこに熱意とチャレンジ精神があるならば、道は開けるのです。私たちは、神様の導かれるところに従って挑戦してゆくという態度が必要です。

 神様を中心にする聖書を土台とした世界観を持つ時、それは世の中のものと対立するものとなってゆきます。「神はいない」と言う立場と「私を愛しておられる創造主がおられる」と言う二つの立場しかありません。中間的な立場はないのです。多神論も「唯一の絶対的な神はいない」と言いますから、「神はいない」と同じ部類です。聖書の世界観は、「神がおられ、この方は真実な人格あるお方で絶対的主権者、創造者である」という立場です。知識についてもこの世とは違います。一般の世は、「知識とは、事実の集積であって、白でも黒でもない中立的なものである」と言います。私たちの立場は「真理はイエス・キリストです」「知識、知恵、悟りとは、イエス・キリストを知ることです。」ですから、チャーチ&ホームスクールで教育を行うことは、神中心の世界観を持つ次の世代を育てるという事業に参加するということなのです。

 実際にチャーチスクールをやっていくことは、多くの大変な面があります。日々、初心に立ち返りながら、スクールを運営してゆくのです。世の中から「立派な学校になりましたね」と言ってもらうためでなく、神様から「よくやったね」と言われることが願いです。

世界の福音化のために

 ですから、社会的認知が得られるのが遅くなろうとも、障害を乗り越えてやっていくのです。教会でも何度も議題に上り、その度に説明するのです。そして、その時は「わかった」と納得した人がしばらくして、また尋ねてくるといった具合です。そういう意味で、私たち自身がますます吟味して、もっと深く知り理解していかなければなりません。

 私たちは日本のリバイバルのため、日本の福音化のために、神様のみ心を行う働きとして、行っているのです。たくさんの教会がこれを行いはじめたら、大きな力になってゆくと思います。アメリカではホームスクール運動と同時に、最近チャーチスクールの運動も強力になってきています。先生たちは皆、溌剌とした若いクリスチャンたちです。賛美にも祈りにも力があります。私たちが訪れたスクールでも、小さな子供たちが、日本のために、涙を流して、「イエス様を知らないこの人たちをあわれんで下さい」「この人たちをあなたのみ心の中に置いてください」と祈っていました。今チャーチスクールは世界のいろんな国々で猛烈な勢いで広がっているそうです。最近会ったインドから来られた先生も、「私たちのところでもチャーチスクールをやっています」と言っておられました。またフランスではこの働きに対する大きな妨害がおこりました。いろんな新興宗教がどんどん入って、子供たちを洗脳するので、法律によって子供たちを宗教者が洗脳してはいけないということになったのです。この影響がチャーチスクールにもろに懸かってきました。そのために罰金を課せられたり、牢屋に入れられた先生たちがいます。「こんなことでひるみません、私たちはどんどんやります、今二十いくつかのスクールができている」とフランスの牧師先生が語っていました。ですから、日本だけではなく、同時多発的に、世界でこのことが始まっているということは、これが本当に主のみ心ではないかと思われるのです。■

 

 

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