聖書を土台とした教育とは

青木靖彦

 

神さまとの正しい関係

 教育の根本的なポイントとは、私たち自身と神さまとの関係にあります。「律法の中で一番大切な戒めは何ですか」イエス様がそのような質問を受けたことがあります。(マタイ22:36)「あなたの神である主を愛しなさい」とイエス様は答えられました。

 私たちが神様を愛すること、神様を知っていることが土台になければなりません。そして、神さまがどんなに愛して下さるかを知っているということです。それは、私たちが、天と地を造られた方についてきちんと理解すること、神さまのみこころに生きることです。「私はイエス様を私の救い主として受け入れます」「十字架は私のためでした」ということが理解でき、これがすべての土台になっていなければならないのです。

 それが、神様と私たちの正しい関係です。この関係が正しくなった時、初めて人は、神様の目から見ても、良い、実りのある人生を生きられるのです。

 

神のみわざを知らない世代

 士師記には、教育が正しく行われなかった例がいくつか書いてあります。士師記の2:10に、「その同世代の者もみな、その先祖のもとに集められたが、彼らのあとに、主を知らず、また主がイスラエルのためにされたわざも知らない世代が起こった。それで、イスラエル人は主の目の前に悪を行い、バアルに仕えた。」とあります。

 イスラエルの民が主を知らない、ということがあり得るでしょうか。彼らは、宗教教育や、聖書を教えることに命懸けです。その中にあって、主を知らない世代が起こってきた、とあります。これは、教育の重要性を伝えていることに、他ならないのです。

 神さまがどんなお方であるか、どんな働きをなさるお方なのか、子どもたちにしっかりと教育しなくてはなりません。神様が天と地を創造した、また出エジプトのわざなど、神さまの偉大な奇蹟の業。これを念入りに教えていかなくてはいけないのです。それもただ歴史としてではなく、本当の意味が分かるように教育すること、それが主を知る世代を起こすことであり、私たちが目指している教育なのです。

 

エリの息子たち

 サムエル記の中には興味のあることが沢山あります。一つはエリという祭司です。エリは祭司として、教会で重要な働きを担うものでした。ところが「エリの息子たちは、よこしまな者で、主を知らず、祭司の定めについてもそうであった、」とあります。彼らは祭司の息子たちです。でも本当の意味で彼らは主を知らないのです。このことに、私たちは注意深くならなければいけません。

 聖書を暗誦出来るとか、聖書について知っているということと、主を知っているということは、必ずしも同じではないのです。私たちが本当にしなくてはいけないのは、子どもたちが主を知るように導くことです。しかし、私たちが主を知らない時、どうやってそれを教えますか。ですから、この教育に携わろうとする者は、まず自分の神さまへの姿勢が問われる、ということを知らなければならないのです。

 エリは息子たちを集めて、警告をします。お前たちは何ということをしているのだ、そんなことをしてはいけない。でもその後に、預言者を通して、エリに対する裁きの言葉が告げられます。「わたしは彼の家を永遠に裁くと彼に告げた、それは自分の息子たちが、自ら呪いを招くようなことをしているのを知りながら、戒めなかった罪のためだ。」(1サムエル3:13)この時に、いやエリは戒めたじゃありませんか、と思うかも知れません。ところが神様の目から見たならば、実行に移せるまで導く必要があったということなのです。

 ただ言葉で、「神様はこんな方ですよ、イエス・キリストを信じなさい。」と言っただけでは、教えたことにはならないのです。その意味を本当に理解して、それが出来るまで導く必要があります。これは決して簡単なことではありません。私たちは、命懸けでやらなければならないのです。

 

もう一つの大事な使命

 ダビデも、ソロモンも、預言者のサムエルも子育てに失敗しました。サムエル記を読むと、サムエルの息子たちは「父の道に歩まず、利得を追い求め、賄賂を取り、さばきを曲げていた。」(1サムエル8:3)とあります。「子どもの教育というものは親の背中でするものだ。」と考える人たちがいます。サムエルは預言者として、素晴らしい主の器でした。本当に神の器として、用いられました。でも彼は子どもたちを、きちんと育てることが出来なかった。それは私たちに何を教えるのでしょうか。私たちが、どのように主に仕えているとしても、与えられた子どもたちをみこころにしたがって育てるということを、もう一つの大事な使命と知らなくてはならない、ということです。

 詩篇の127編には、

「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る人の働きもむなしい。」

 とあります。

 この詩篇は、「見よ。子どもたちは主の賜物、幸いなことよ、矢筒をその矢で満たしている人は。」と終わります。これは何を私たちに教えるのでしょうか。実際に家を建てるのは、私たちです。私たちが子ども達にお乳を飲ませ、成長させて行きます。でも、主が育てるのでなければ、育てる者の働きはむなしいのです。それは、主のみこころに従って、私たちが子育てをするという意味です。私たちが心を開いて、「主よ、あなたのみこころは何ですか、何を教えなければなりませんか。」といつも聞いていかなければならないのです。

 これは、私たちに果たすべき責任がある、ということです。また、「見よ、子どもたちは主の賜物。」とあります。親は特別な愛を持って子どもをみることが出来ます。なんでもしてあげたい、と思います。でもその時に、間違った考えを持っていたらどうでしょう。とんでもないまやかしものを与える可能性があるのです。ですから私たち自身が、主の教育とは何か、何度も立ち返って、私たちが迷った道に行っていないかどうか、確認しなければならないのです。

 主のみこころに従って子どもたちを育てるのは、困難もあります。打ち勝っていくためには、はっきりとした信念がなくてはならないのです。その一つは、主のみこころを知って正しく教育することは、「命懸けで取り組むに値するのだ。」と知ることです。他の誰かにゆだねることではない、私の責任として受け止めていくということが大事だと、まずここからスタートするのです。

 

教育の必要性

 私たちは、神さまから愛される対象としてこの世に送られてきました。愛される対象として、魂を持つものとして、送ってくださった。生まれてきた子どもは、神さまについて、自分がどんなものであり、世界がどのようにして出来たか、学んで行かなければなりません。そして神さまは、自分で選んで、主を愛する事、神さまに仕えるようにと言って下さっているのです。神を愛しなさい、と言っておられることには、そういう意味があるのです。

 神さまが私を愛して下さっている証拠の一つは、アダムとエバを祝福して言われた言葉、「生めよ、ふえよ、地を満たせ、そして、全地をしたがえよ。」ということです。神さまの造られた世界を治める、お人形さんのようにいれば良いというのではなく、使命を与えてくださったということです。このように、神様の使命があるということから、「生まれて良かった、生きていて良かった。」という充実感を持つことが出来るのです。

 しかし、アダムとエバは、サタンの誘惑に遭って堕落しました。その後の、アダムの子である私たちすべての者は罪人として、救いをえなければならない者として生まれてくるわけです。このことが、教育の必要を一層増やしたわけです。

 

神さまなしの人生に意味はない

 教会に与えられた大きな使命は、「全世界に出て行って、全ての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」ということです。それは、私たちをお造り下さった神さまがおられ、ご自分を捨てて私たちを救って下さる方ですと、語ることです。それと同時に、アダムの子である私たちは罪人だということを教えられなければ、イエス様を信じることが出来ません。これが教育にゆだねられていることです。

 聖書は教えています。「神さまなしの人生に意味はない」と。

 神なき人生を歩む者は、みんな人間中心に向かって歩んでいます。人間の目にはそれが好ましく見えるからです「すべての人が新しく生まれなければ、神の国に入ることが出来ない。」とイエス様が言われましたが、これこそ子どもたちに絶対に教えなければならないことなのです。

 ただ、「あなたは罪人ですよ。」といえばすむことではなく、神さまがどんなお方であり、みこころが何であり、御わざが何であったか、一つ一つ教えていかなければならないのです。私たちが子どもたちの教育に携わる時、これを教えるところからスタートしていくわけです。神さまを信じていない人に預けた子どもたちが、この最も大切なことを知ることはありうるでしょうか。ですから、教育というのは、好むと好まざるとに関わらず私たちすべてが関わらなければならないのです。

 私たちは、子どもたちが主を知る者として育つように、自分の出来ることをしなければならない、これは命懸けで全力を尽くして行うほど大切なことなのです。

 

魂が養われる

 「イエス・キリストを信じました。私はもうこれで地上の働きを終えました。」というとそうではないですね。そこから今度は神の国の教育の別の面がスタートしていくわけです。福音書、使徒の働きの後の手紙のほとんどは誰に向かって書かれていますか。イエス・キリストを信じた人に向かって書かれています。それは、イエス・キリストを信じただけで終わりではない、それから私たちの魂が養われて、神さまが望まれるような者に成長していくというわけです。

 ペテロの手紙の中に、クリスチャンとはどんな人かというと、「あなたがたは選ばれた種族です、そして王である祭司です、聖なる国民、神の所有とされた民です。」(1ペテロ2:9)と書いてあります。イスラエルの民が選ばれた民でした。しかしイエス・キリストを通して、今や私たちも枝に結がれた者になっているのです。イエス・キリストを信じることによって、王家の一員になった。本当にそのことを自覚している人は、それらしく振舞います。「私はプリンスです。」という人が万引きなんかするでしょうか。そんなことは絶対ないですね。魂がしっかりと養われている。教育はこの部分をになうのです。

 「あなたがたは地の塩です、あるいは世界の光です。」これはイエス様が私たちに与えて下さった預言の言葉です。これを信仰を持って受け止める時、実現するのです。イエス様が山上の垂訓で語られた時、それを聞いた人たちは、地の塩でしたか、世界の光だったでしょうか。

 まだそうなってはいない者たちに対して、神様は語って下さる。「私はあなたがたを国々の光とする、諸国の民の光とする。」イザヤ書の中には、沢山そういう言葉が書いてあります。私たちは、これを教育のビジョンにしていくわけです。こうして、神様の御声に耳を傾けるという方向に、子どもたちを導くことが出来るのです。


きちんと育てられたダニエル

 ダニエル記の中に出てくるダニエル、あるいはシャデラック、メシャク、アベデネゴという若者たち。彼らの育った時代は、イスラエルの歴史の中でも最も暗い時代でした。

 自分の国が滅亡し、主だった人たちが捕虜になって皆連れて行かれる、という事を体験した世代です。そういう中にあって、彼らがどう育って来たかを見た時、驚くべきことがあります。

 ネブカデネザルの作った像を拝め、と言われた時に、「王よ、私たちは絶対に拝みません」ということが出来たのです。なぜですか。彼らは主を知っていたのです。「王よ、ご承知ください。私たちの神さまは、たとえ私たちをその炉の中に入れても、そこから救い出すことの出来るお方です。でも王よ、お聞き下さい。たとえそうでなくても」と言いましたね。「何か神さまにはみこころがあって、そこで燃え尽きなければならなかったとしても、王よ、私たちにはあなたの像は拝みません。この生けるまことの神さま、この天と地の造り主以外の方を神さまとすることは私たちには出来ないのです。」

 彼らはまさに、主を知る世代でした。ダニエルもそうですね。肉を食べて穢れるよりは野菜を食べて生きる、ということを選んだ者でした。聖書の中には、誰がダニエルを育てたか、書いてありません。でも、主を知ることを教えた者はいたのです。必ず、誰かがいたのです。私はこれは、彼らのお母さんではなかったかと思います。

 聖書の中の、列王記や申命記に、王たちの業績が出て来ます。ほとんどは「ダビデの道に歩まず」と、悪い王として描かれています。でもその中に、何人か素晴らしい王様が出て来ます。なぜそうなのだろうか、まだ、本当にはっきり証明されたわけではありませんが、もしかしたらお母さんの働きが大きいのではないか、と考えています。

 母親は、特に子どもが小さい時には、非常に多くの時間を一緒に過ごします。その時に信仰を分け与えることが出来る、子どもたちを主を知るように導くことが出来る、その結果、本当に主を恐れる子どもたちが起こってくるのではないでしょうか。サムエルが子育てに失敗したことは、おそらく奥さんに問題があったのではないでしょうか(笑)。

 ご主人は仕事で忙しくしていても、子どもと多くの時間を接する母親が、本気で命懸けで主を伝えることをすれば、主にある子育てが出来るのです。ホームスクーリングの大切さがここからもわかります。


勇士の手にある矢

 また127篇には、「若い時の子らは、まさに勇士の手にある矢のようだ。」とあります。まだ柔軟な、教えることが出来る子らです。その子どもたちが、主のみこころに従った教育を受けるときにどうなるか、それは勇士の手にある矢のような者になると、これは神さまが私たちに与えてくださる大きな夢とまぼろしです。これを行っている時に、私たちは神さまの後押しを受けることが出来るのです。

 そして矢筒の矢は真っ直ぐで、美しくて、有効な矢であるなら、人生と言うのは霊的な戦いの連続ですけども、堂々と戦うことが出来るのです。

 しかし、その矢が曲がっていたり、見るも無残な姿だったら、どのように戦えますか。これは教会にとっても家庭にとっても国家にとっても同じです。

 皆さんの家庭はどうですか。この矢筒が立派な矢で満たされているなら、本当に幸いです。でも遅すぎることはありません。いつでも親はこの使命を担って、自分の子どもを神の子孫に育てる、ということに働いていくことができます。恥を見ることがない、そういう人生がそこには待っている、ということです。

 

聖書的な世界観

 イエス様はある時、律法の専門家の質問を受けました。「律法(聖書)の中で一番大事な戒めは何ですか」その時にイエス様は、「聖書に何と書いてありますか。」と尋ねました。その専門家は正しく答えられました。「あなたの神である主を愛しなさい、全力を尽くしてこの方を愛しなさい、そして自分を愛するように隣人を愛しなさい」この会話は、「どうしたら永遠の命を得る事が出来ますか」から始まっていました。専門家は、神様の言葉を学びながら、意味を本当には分かっていなかったのです。もし知っていたら、永遠の命はその人のものになっていました。このことを私たちは心に深く留めておかなくてはなりません。

 聖書の中から私が良いと思うことを取り出すというのは、私が聖書の上に立つ、ということです。「私が聖書を、正しいか正しくないか、本物か本物でないかを決めます」という立場は、聖書的とはいえません。聖書に基づくという時には、神さまに耳を傾けて行かなければならないのです。「神様、私が、悟るべき事は何ですか」、と日々求めながら歩んでいくことが大切です。それが、聖書的な世界観となっていくのです。

 子どもたちが、正しく聖書的な世界観に立っている時、本当に聖書を通して、生ける神様を知り、みこころに従って生き、みこころを実践していけるのです。「神様が、善悪をお決めください。私は神様に全面的に従います。」という立場に立てる、これが本当に聖書的な世界観です。

 これを私たちは実践しているか、日々自分自身を吟味していかなければならないと思います。ですから、子どもたちの教育に携わる時、それは直ちに、私たちの信仰が問われることになってきます。どうぞ皆さんも、神さまから聞いてください。そしてともにこのような知識を、分かち合って、神の子孫を育てるという事業に取り組んで行きたい、そして子どもたちの教育について神さまから、「良くやった」と言われるような働きを、ぜひ実行していきましょう ◇